2022年から、全日本ロードレース選手権ST1000に参戦することになった岡田秀之選手(オートレース宇部 RACING TEAM)を紹介します。
プラス、ライディング技術向上の話も。

岡田 秀之(Hideyuki Okada)
神奈川県藤沢市出身、茅ヶ崎市柳島在住。24歳。趣味はサーフィン。
2019年 FIMフラットトラック世界選手権 ランキング10位
2020年 鈴鹿サンデーロードレース NAT ST600 ランキング6位
2021年 鈴鹿サンデーロードレース INT ST1000 年間チャンピオン
筆者が岡田選手を知ったのはつい最近。
日向社長(ガレージ湘南)に、「茅ヶ崎から全日本に参戦するライダーがいるらしい」と聞いたのが初めて。
「2021年に鈴鹿選手権シリーズ(インターST1000クラス)でシリーズチャンピオンになった」
「スペインや、世界選手権のフラットトラックレースに参戦していた」
それぐらいしか、情報がなかった。
最初に名前を見たとき、元世界GPライダーの「岡田忠之」選手と似ているなーと思ったのだが、よく調べてみると、本当に岡田選手の息子さんということが判明した。
これにはさすがに驚いた。
ここで、少しだけ秀之選手の父 「タディ」こと岡田忠之氏について紹介しよう。
遅咲きでレースデビューした岡田忠之選手

岡田忠之選手
1967年2月13日生まれ。血液型はO型。茨城県水海道市(現 常総市)出身。
2輪ロードレース世界選手権500ccクラス(現在でいうMoto-GPクラス)の元ワークスライダー。日本人ライダーの中では、同クラスで最多優勝記録となる4勝をあげている。
(筆者の遠い記憶では)お父さんの方針により、レースデビューは高校卒業後だった。
周囲の日本人ライダーたちの多くは、幼少期からバイクレースをやっていたので、かなり遅いレースデビューといえる。そういったハンディを乗り越えて、1989-1991年、全日本ロードレースGP250で3連覇を達成。
1993年、念願の世界グランプリ(250ccクラス)に参戦。1995年に鈴鹿8時間耐久ロードレースで見事優勝し、1996年から世界最高峰クラス500ccにステップアップすることになった。
ワークス(メーカー直系)チームのレプソル・ホンダでデビューした岡田選手のマシンは、当時の主力マシンNSR500(V型4気筒)ではなく、V型2気筒のNSR500Vだった。
「軽い車重とハンドリングを生かして、コーナーリングスピードで4気筒を上回る」
という試みでつくられたニューマシンだったが、軽量な反面、パワーでは4気筒に劣っていた。また、かなり乗りこなすのが難しいマシンであったことが後年、開発秘話によって明らかになっている。
そのコントロールがむずかしく、非力なNSR500Vで、ポールポジションを獲得。年間ポイントランキング7位でシーズンを終えた。翌1997年には、主力マシンNSR500が与えられた。
筆者がレースを観るようになったのが、ちょうどこの頃だ。
友人に勧められて、なんとなく観た世界GPはまさに衝撃だった。
125cc、250cc、500ccどのクラスにも日本人ライダーがいて、しかも優勝を競っていた。世界GPはF-1に相当するレースだが、F-1とちがい、日本人ライダーがレースを席巻していたのだ。
ふだん自分が日本人を意識することはなかったが、その時ばかりは「日本人って、すごいんだな」と思ったものだ。
しかし、その中で500ccクラスは別格というか、強烈に強いライダーが存在した。
岡田選手のチームメイトであり、500ccクラス5年連続世界チャンピオン(1994-1998年)のミック・ドゥーハン選手だ。

1997年のドゥーハン選手の戦績は、シーズン15戦中12勝、10連勝。ポールポジション獲得11回。まさに圧倒的な強さを誇っていた。
この年、ドゥーハン選手と競り合って勝利したライダーは、わずか2人だけだった。
同じレプソル・ホンダのスペイン人ライダー アレックス・クリビィーレ選手(WGP500 1999年世界チャンピオン)と、岡田選手だ。
インドネシアGPで岡田選手が優勝した時は、心から感動した。

イギリスGP。ドゥーハン選手にとっては、4度目のタイトル獲得がかかった一戦。
序盤から岡田選手はドゥーハン選手に食らいつき、オーバーテイクするシーンが観られた。(7 岡田忠之選手)
1997年、岡田選手の年間ポイントランキングは2位。最高峰カテゴリで日本人の最高位となっている。
・・・と、このまま、岡田忠之選手の話を続けていると、主役が入れ替わってしまうので、これぐらいにしておこう。
とにかく筆者がお伝えしたかったのは
・岡田忠之選手はレースデビューが遅かった
・にもかかわらず、多大な努力によって、みずからチャンスをつかみ、世界トップライダーと優勝を争うまでに自分自身を進化させた
・世界最高峰レースで、日本人として最高の成績をおさめた(年間ランキング・優勝回数)
願わくば、この記録を更新するのが、秀之選手であってほしいものだ。
ということで、岡田秀之選手にバトンタッチしよう。
岡田 秀之選手のプロフィール
多くのレーシングライダーがそうであるように、秀之選手も幼少期からレースや、バイクが身近な存在だった。
初めてサーキットを走ったのはポケバイで、小学校低学年の時だったそうだ。しかし、その時はそれ以上、興味は持たなかったようだ。
16歳の時、二輪免許を取得したが、あくまでそれは趣味としてのバイク。
レーシングライダーを目指すつもりはなかったとのこと。
父親の影響
父 岡田忠之氏は現役引退後、「イデミツ・ホンダ・チーム・アジア」の監督を務めることになった。
広くアジア全域から、世界のトップレベルで戦い、活躍できるアジア人ライダーの才能を発掘・育成するためのチームとして2013年に発足。ロードレース世界選手権で最高峰クラス(当時)において、日本人最多の4勝を挙げた岡田忠之監督のもと、着実に経験を積み重ねながら、所属選手たちの活躍により、数々の好成績を収めてきました。2018年からはチーム監督にHRCテストライダーの青山博一を迎え、中上の後任ライダーとして、長島哲太が新加入。カイルール・イダム・パウィとの2名体制でシーズンに挑みます
https://www.honda.co.jp/WGP/teamasia/
秀之選手は、父親と一緒に世界中のサーキットをまわった。そうするうちに刺激を受けて、現役のライダーとともにトレーニングを開始。
16歳というと、世間一般的には若いのだが、3歳から5歳ぐらいでバイクレースを始めるライダー(世界チャンピオンや、ヨーロッパ選手権チャンピオン、スペイン選手権チャンピオンなど)が席巻していることを考えると、遅いスタートといえる。
「チャレンジするのに、遅すぎることはない」
基本的に筆者もそういう考えを持っているが、現実的に考えると、スポーツでトップを目指すのであれば、早いに越したことはないと思う。
アスリートは選手生命(現役でいられる期間)が短いからだ。
趣味として続けるとか、順位やランキングにこだわらなければ、長く続ける事もレースによっては可能だが、世界トップを目指すことを考えた場合、チャレンジできる時間はかなり限られている。
たとえば、大学受験。
難関といわれる私立大学(明治・青山学院・立教・中央・法政)の合格者と、不合格だった人の差はなにか?
合格率100%の学習コーチに聞いたことがあるが、「いつから準備しているかで、ほぼ決まる」そうだ。
というのは、高校1年生から受験に向けて準備するのと、高校3年生になって「わー まずいどうしよう」あせって勉強し始めるのとでは、勉強時間に圧倒的な差が生まれる。
どんなに勉強ができたり、頭がよくても、決定的に時間が足りなければ、どうしようもない。
言われてみれば当たり前のことだが、意外と、多くの親御さんや学生さんがこのことを理解していないようだ。
では、もうひとつ質問。
「さらに難関といわれる東大や京大などの合格者は、ほかの人たちと、どうちがうのか?」
もうおわかりだと思うが、受験に向けて準備にかかるのが、より早い(たとえば小学生から)そうだ。
このように時間は有利に働くこともある反面、埋めようがない場合もある。
しかし、いざスタートした場合、時間を言い訳にはできない。秀之選手は、おそらく(お父さんがそうであったように)相当な努力をされたのではないだろうか。
経験に勝るライバルたちと同じペースで取り組んでいたら、とても競争で勝つことはできないからだ。
少なくともライバルたちの2倍、3倍は努力しないと、差を詰めていくことはむずかしいと思う。
デビュー戦で初優勝
2017年、スペインのフラットトラック選手権に参戦し、デビュー戦で初優勝。
ちなみにフラットトラック(日本ではダートトラックと呼ばれることが多い)は、未舗装の「だ円」コースを周回して競うレースのこと。

すごく簡単に説明すると、オフロードタイプのバイクに、ダート用のタイヤを履かせている。リアブレーキしか使わないため、フロントブレーキを取り外しているのが特徴だ。
2021年に引退したMoto-GPライダー バレンティーノ・ロッシや、マルク・マルケスなど、ロードレーサーたちがトレーニングにフラットトラックを取り入れている事は、レースファンの間では周知だと思う。
少しだけ歴史をさかのぼると、積極的にロードレーサーたちが、フラットトラックをふだんの練習に取り入れるようになったきっかけはケニー・ロバーツだろう。

ケニー・ロバーツ(Kenny Roberts)
1951年12月31日生まれ。アメリカ合衆国・カリフォルニア州出身。ロードレース世界選手権500ccクラス(現MotoGPクラス)3年連続チャンピオン(’78年-’80年)。
レース引退後は、チームマネージャー(監督)として後進を育成。ウエイン・レイニー(500cc ’90-92)や、ジョン・コシンスキー(250cc ’90)など、世界チャンピオンを輩出。息子のロバーツ・ジュニアは2000年にWGP500で世界チャンピオンになり、世界初の親子チャンピオンが誕生した。
ケニー氏は、14歳の時にフラットトラックレースに出場。
ロードレースを始めた18歳の時点で、(本人いわく)「アメリカ国内のジュニアクラスで、一番のフラットトラックライダーになっていた」という。
1978年、ケニー氏が27歳の時、「アメリカ人には無理だ」とされていたWGP500で、参戦初年度に世界チャンピオンに輝いた。(アメリカ出身ライダーとしては初)さらに79年、80年と3年連続世界チャンピオンの偉業を達成。
ケニー氏の活躍が、ハングオン(正確にはハングオフ)のライディングスタイルを、多くのライダーが取り入れるきっかけとなった。
フラットトラックとケニー氏、ロードレースの関係
まとめると
・モータースポーツはヨーロッパ発祥のスポーツであり、国技ともいえる存在である。
・アメリカはほとんどがダート(未舗装)コースで、オンロード(舗装されたコース)のサーキットはごくわずか。基本的にクローズドコースを走る場合、ダートコースになる。
・ケニー氏が世界GPを走るようになった頃、基本的なライディングスタイルは「膝を突き出さない」ヨーロピアンスタイルが主流だった。
・ヨーロピアンスタイルの欠点は、フロントタイヤに負荷がかかるため、フロントから転んでしまうこと、とくにウエットコンディション(路面が濡れている状態)での転倒が多かった。
・ケニー氏がハングオフスタイルで走った時、周囲のライダーから奇異な目で見られた。(「なんだって、そんなおかしな乗り方をしてるんだ?」)ある時、転倒した際は、メカニックのケル・キャラザース氏に「そんな変な走り方をしているから転ぶんだ」と言われた。
・逆風のなか、ケニー氏は3年連続世界チャンピオンの偉業を達成。
その後、後輩のエディ・ローソン(WGP500 ’84・’86・’88・’89世界チャンピオン)や、最大のライバル フレディ・スペンサー(WGP500 ’83・’85世界チャンピオン)、愛弟子ジョン・コシンスキー、ウエイン・レイニーなど、フラットトラックの経験者であるアメリカンライダーたちが世界GPを席巻することとなった。
正確にいつかはわからないが、このぐらいから「トレーニングにフラットトラックはいいらしいぞ」という事が、GPライダーたちの間で広まっていったのではないだろうか。
ちなみにミック・ドゥーハン選手も、8歳から16歳までフラットトラック(だ円コースではなく、コーナーが右にも左にもあるコース)をやっていて、ロードレースの経験が短いまま、世界GPを走ることになった。
フラットトラックでライディングの基本を身につけた。スライドしたときの対処方法や、スロットルコントロール、ライディングポジションの大切さを学んだ。私のライディングスタイルの起源はそこからきている。
(ミック・ドゥーハン)
フラットトラックの利点は、オンロードを走るよりもずっと遅い速度(低リスク)で、マシンをコントロール術を身につける事ができるし、マシンのコントロールを失うまで攻めても転倒しないことだ。
(ケニー・ロバーツ)
遠い記憶だが、ロッシが250ccから500ccに上がった時には、トレーニングにフラットトラックを取り入れていたように思う。

2000年、オーストラリア人ライダー ギャリー・マッコイ選手は、スライド走法で話題になった。(16.5インチタイヤを好んで履いたため、一時、16.5インチタイヤが流行した)
フロントが滑った!あなたならどうする?
余談だが筆者が若いころ、やはりケニー氏や、ドゥーハン選手にならって、70ccのカブで、こっそり空き地を走っていた。
(パトカーが来ないか周囲に気を配りながら)
もちろん、とてもフラットトラックと呼べるようなレベルではなかったが、いま振り返ってみても、一般道路を数十年、数万キロ以上走るより、ダートを走ったほうが、はるかに学ぶ事が多かったと実感している。
ある時、大阪市内をRZV500で走っていて、路面は雨上がりで濡れていた。
ほぼ直角の右コーナーを旋回するのだが、いくつもマンホールなどが並んでいるため案の定、フロントがスリップした。「あ、滑った!」と思うより早く、反射的に身体が動いていた。
この場合、シートから腰を上げて、フロント寄りに体重移動する。
これは誰に教わったわけではなく、実際にカブで、ダートを走っているうちに身につけたものだ。ずいぶんと時間が経ってから、とあるYouTube動画で、理にかなっていることを知った。
つまりフラットトラックは、公道ライダーにも大いに役立つということだ。
スピードを出す出さないに関係なく、バイクという不安定な乗り物を安全に走らせるためには、ダート走行ほど適したものはないとさえ思う。
筆者もそうだったが、初心者ライダーが「怖い」と思うのは、スリップした時や、その対処方法を知らないからだ。だからちょっと滑っただけでパニックになり、転倒事故につながってしまう。
(筆者の友人も納車後、1ヶ月経たないうちにスリップダウンで転んだ)
できれば50ccなどの軽いバイクで、バイクが滑ったときの挙動や、その対処方法を身につけておくと、雨の日でも怖い思いをすることなく、運転できるようになると思う。
ダートはそれが低いリスクで可能という事だ。
・・・と、最近、またダートを走りたくなってきたので、つい脱線してしまった。
大国スペインでの勝利
これまでお伝えしたとおり、モータースポーツの本場スペインは、のちにMoto-GPで活躍する選手がゴロゴロいたりする。いまや世界で、指折りの強豪たち(若手)がひしめくのが、スペインではないだろうか。
そんななか、岡田秀之選手は2017年、スペインのフラットトラック選手権にデビュー戦で初優勝。
2019年にはFIM(国際モーターサイクリズム連盟)フラットトラック世界選手権に参戦、ランキング10位と好成績をおさめている。
2020年から、鈴鹿サンデーロードレース NAT ST600に参戦。
翌2021年には、INT ST1000(ZX-10R 山科カワサキ・オートレース宇部 with YIC)にスイッチ。マシンが600ccから1000ccに変わったことで、マシンに慣れるまで6ヶ月ほどかかったようだ。
(現在の1000ccバイクは、NSR500より馬力があって、車重は重い)
しかし見事、シリーズタイトルを獲得。
2021年 鈴鹿選手権シリーズ 鈴鹿サンデーロードレース リザルト
第5戦 12位
第4戦 3位
第3戦 7位
第2戦 14位
第1戦 12位
秀之選手にとって、これは序章に過ぎないだろう。
現代はお父さんの世代とちがい、かならずしも全日本選手権が、Moto-GPに直結しているとは言えなくなってきているように思う。
それでも、なんとかご自身の夢や目標に向けて、チャンスをつかんでもらいたい。


